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人と競うというのは自分がそのステージだと示しているだけ

2021-03-14
私も日本で教育を受けたのだけれど、アメリカの教育も含め、同じ歳だけで集めて教育を受けさせられるというのは多かれ少なかれ競争意識を刺激するものである。テストの点数、内申、給食の食べるスピード、スポーツ、音楽、受験、就職活動・・・なんかこうしてみるとたくさん無駄なことをしてきたなって思うけれど、どれも何かしら競争意識があってしてきたような気がします。

社会に出てみると、営業数字、出世、収入、車、家、結婚する歳?など競争はあるんだけれど、自分がそれに参加しないというのも出世しない選択と同じで、一応は選べる。会社を作ってみたら、大企業と同じようなことをしていたら、過当競争に参加することになる。けれどビジネスの成功は大企業の下請けになることでも、御上から仕事をもらい税金を落としてもらうことでもない。独自性のあるサービスを提供し、顧客に評価してもらうことである。

そのスイッチ転換は自分自身にある。自分が他者と比較をして、それに勝とうと思ったり、価値を主張した時点で、自分にはそれ以上の価値がないことを証明していることになる。他人と比較される程度の大差ない価値しか持ち合わせていないということを自分から示していることになる。自分自身に価値があるかなんていうのは、自分自身ではわからないものだ。わかっていたとしたらそれはただ自分に自信を持ちたいがための見栄であり、虚栄である。自分の価値は他人が評価することであり、競争をしようとすることは、評価をされたいからする行為である。自分が本当に価値があるとすれば、その価値を見出して評価してくれる人が必ず世間のどこかにいる。評価をしてもらうために自分の時間を使う暇があるのであれば、自分の価値を高めることに使うべきなのである。それをしている人が本当に価値があり、それを周りが評価してくれる。想えば逆を行け、だ。

自分を評価してくれという人間と話すのは辛い。言ってきてる時点で、評価できることが少ないことがわかっているからだ。確かに100話したら5くらいは知らないことが出てきて、評価の足しになることはある。けれど、その会話をしている時間を使って、5を10にでもする努力をしてほしい。自分に何が足りないのかを気づきたいなら、自分に何が足りないのか素直に聞けばいい。そういう人は5が50にも90にもなりえる。たまに聞いている行為がパフォーマンスな人間がいて、言わせておいて、行動しないというのは救いようもないが・・・。

そういう私自身も自分を戒めて、何が足りないのか、何ができるようになるのか、何を与えられるのかを考えていかなければいけない・・・と伝えると、最も救いようのない人間は決まって「ほらあなたにも足りないところあるでしょ」とまた競争を始める。気づくか気づかないか。1年、5年、10年後の結果でわかった時には、もうお互い関わりもないだろうから、答え合わせもできないまま人生が終わっていく。本当に理解しているのは自分のみ。虚栄も張れなくなった頃、後悔を口に出せたらまだマシ。
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